拳を固めてサワディカップ18-4

1月12日、10時起床。窓の外はしとしと雨が降っている。

プールはお預けかと思い、部屋でルームサービスのコーヒーを飲んでいると、マッチメイクを依頼されているいくつかのジムから続けざまに連絡が入る。

コロナウィルス感染拡大の影響で、予定している興行開催の雲行きが怪しくなっているから、マッチメイク作業をいったんストップしてくれとのこと。

やはり思った通りだ。ネットが発達している現在、このような大きなニュースは世界中にあっという間に配信される。ニュースを見ていると、街がロックダウンされているところもあるという。第二次世界大戦も知らず、わりと平和な時代に生まれ育った私にとって、初めて経験するパンデミックになりそうだ。

ホテル前の屋台で40B(120円)のクイッティアオ(タイ風汁そば)を食べていると天気も回復。急いで屋上プールへ。

雨上がりの青空は本当に気持ちがいい。1時間しっかり泳いで気持ちのいい日差しの中、リクライニングシートで横になり2時間昼寝。現地人のように真っ黒に日焼けしてしまった。

15:00、支度をしてタクシーを手配、一路、サーサクンジムへ。

コロナ対策なのか、隣接する市場はいつもと違い、人もまばらだった。当然、ジムも一般のフィットネス会員はほとんどおらず、プロボクサーたちだけが黙々とサンドバッグを叩いている。

全員のミットを持ち、サイドからのカウンターや出入りのフェイント、頭や肩を使った接近戦の攻防を教える。ゆったりとしたリズムでクイックな足さばきのないタイ人ボクサーに教えられることは何か、ということをずっと考えていた。

確かに体は柔らかく、目のいいタイ人ボクサーたちは、テクニカルなボクシングを習得しようとしないし、そういう指導もあまり受けていない。これでは世界レベルでの総合力でしのぎを削っていくのは難しいと考えていた。

頭ごなしに現状のボクシングスタイルを否定せず、レベルアップをさせるにはどうすればいいか。

今の彼らのボクシングをベースとして、肉付け・味付けをしようと決めた。「これを取り入れたら今よりもっとよくなるよ」という風に。

とにかく乗せること、気分良くさせること。これだけを念頭に指導を続けた。すると気分屋で明るいタイ人たちはスポンジが水を吸収するように教えたことを繰り返し練習し、みるみるマスターしていく。もともと身体能力は高い連中だ。

結局、彼らが普段練習しているよりもハードな内容になるのだが、気分良く取り組んだせいで、彼らの表情に疲労感やうんざり感はなく、練習後のジュースを飲みながらの反省会でも皆いい顔で笑っていた。

この一年、スケジュールをやりくりして、従業員に迷惑をかけながら、毎月タイに来て彼らの指導をしていたが、やはり月に6日ほどの指導では物足りなくなってきた。身体能力の高い彼らの練習に付き合うたびに、「毎日朝練から付き合ってみっちり指導してみたい」と、とんでもない欲が出るようになってしまった。

もっと時間とカネをうまくやりくりして、そうなれるように前を向いて頑張ろう。

ホテルに戻り、プールでひと泳ぎ。ジムでいつもよりがんばって指導したせいで、どっと疲れが出てきた。夕飯の前に少しベッドで眠ろう。

うとうとしかけたところで、はす向かいの部屋からけたたましくドアをノックする音が聞こえる。うるさいなぁと思って布団を頭からかぶるが、やかましいノックは10分近くも鳴りやまない。

文句の一つでも言ってやろうとドアを開けると、25歳くらいの女が鬼の形相でこちらを振り返った。

「どうした?トラブルならフロントに行けよ」

そう言うと、かなりの剣幕のタイ語でまくし立ててきた。

昼寝どころではないと思い、「みんなの迷惑になるから、一旦、下のレストランに行こう。お茶でもごちそうするよ」

女はきょとんとしながらも素直についてきた。

What’s up dogに入ると、オーナーのティナが「あら、彼女ができたの?」と笑いながらチャン・ビールを出してくれた。

ビールを飲んで少し落ち着いた女に話を聞いた。名前はファー、27歳。パッポンの売春バーで働いているという。昨日来た客が、5000B(15000円)で店外デートに誘ってきたので、教えられた部屋を訪ねてきたらしい。相手の白人の男は気が変わったのか、約束を反故にして電話にも出ない。

「自腹でタクシー代を払って駆けつけたのに、これじゃ大損だわ。お店だって休みを取ったのに」

と怒り心頭。

向こうで話を聞いていたティナとリンがグラスを持ってテーブルにやってきた。

「お気の毒だったわね。運が悪かったと思ってあきらめなさい。そのかわり今日は私とケンでたくさんごちそうしてあげるから、機嫌直して明日からまたがんばるといいわ」

そう言って、大量のワインと食事を持ってきた。

みんなで乾杯をして食事を楽しんでいるうちに、ファーの機嫌も次第に直ってきた。

聞けば、父親が大病をして亡くなった後、心の張りをなくした母親までふらふらと道を歩いていたところ交通事故に遭い他界してしまったとのこと。

抜け殻のようになったファーは、徳がなかったからだと自分を責め続け、毎日お寺で炊き出しや介護のボランティアに明け暮れていたという。

このまま人生が終わってしまうのかと思うといてもたってもいられなくなり、エンジン機器関連の勉強をして田舎の農業の発展の手助けをできる実業家になりたいと一念発起。学費と資本金をためるために今の売春バーで働きだしたそうだ。

これが本当の話なら、すっぽかされて怒り狂うのも無理はないか。

リンがファーの隣に座り、怪しげな投資の話をし始める。向こうでティナが共同経営者の彼氏と大喧嘩を始めた。

みんな必死なんだな、そう思うと何だかクスクスと笑う気になってきた。

さぁ、後2時間で帰国だ。今年も頑張っていこう。