拳を固めてサワディカップ19-1
2020年2月13日、ひと月ぶりにバンコクへ。
前回の帰国早々、目が回るほど忙しい毎日だった。去年までの惰性でこなしてきた業務を一新し、スタッフ一同気を引き締め直すためのマニュアルや報酬制度の見直しをした。こういうツールを改める時、作り直したこと自体に満足してしまって、実際には機能せず、旧態依然となってしまうことがよくある。今回はそこを厳しく見直した。ただし、あまり急に改めすぎてもワンマンさで困惑させてしまうので、半年をめどに浸透させて、精度の高い業務を行えるように頑張っていきたいと思う。
13:15、バンコク・ドンムアン空港に到着。スマホのシムを購入し、設定が完了するまでショップ前のソファでくつろいでいると、妻のタイ語の先生、ゴイさんから声をかけられた。どうやら同じ便だったようだ。コーヒーを飲みながら偶然ですねと笑いあう。今回は大阪で就職が決まった息子と鉄道旅行をするために帰ってきた、久しぶりに息子と会えるのが楽しみだと嬉しそうだった。
今日も抜けるような青空で、喫煙所でのタバコもうまい。
タクシーを飛ばしていつものLAタワーマンションへ。
ホテル1階のWHAT’S UP DOGへ入り、いつものチャン・ビールで駆けつけ3杯。向こうのテーブルでリンが実業家風の白人女性になにやら商談を仕掛けている。リンと目が合ったが、巻き込まれたくないので、知らない顔をした。
オーナーのティナと話し込んでいるうちに15:00になったので、ホテルにチェックインする。今日は夜に用事が入っているから、お楽しみのプールは後回しにして、タクシーでサーサクンジムへ出発。
ジムへ着くと、ペッマニーがすでに汗まみれになってチャッチャイとミット打ちをしている最中だった。チャッチャイが構えるミットに複雑なコンビネーション・パンチを手際よく打ち込んでいる。やや手打ち気味ではあるが、バランスのいいコンビネーションはポイントを撮るのに実に有効だ。
「ケン、バトンタッチだ。コンビネーションの型は教えたから、パンチに切れを出させてやってほしい」と、ミットを手渡してきた。
急いで練習着に着替え、1ラウンド5分のミットを受ける。
まず、ジャブ。タイ人特有の押し込むような力づくのジャブだ。リズムをとらせ、出入りをしながらジャブを何度も打たせる。スピードが出てきた。パンチの引きを強調してスナップを教える。ミットに炸裂する音が甲高くなった。切れが増した。
一通り、切れるパンチを覚えたところで、コンビネーションに移る。やはり鬼の形相で力任せに押し込んでしまう。
次はパンチに強弱をつけさせる。表情に余裕が出てきた。コンビネーションが小気味いい音を立て始めた。
さすが世界ランカー、覚えが早い。
さらに複雑なコンビネーションを打たせてみる。上下を巧みに打ち分ける実践的な攻撃。
リラックスしてバランスが良くなったせいで、実に滑らかにパンチがミットに吸い込まれていく。ハンマーのような破壊力はないが、ナイフで切りつけるような鋭く物騒なパンチが完成した。
ラストは中間距離からステップインで踏み込む長いワン・ツーでフィニッシュ。鞭がしなるようないいパンチだった。
「GOOD!」チャッチャイが満足そうに笑っている。
汗びっしょりのペッマニーの顔と体をバスタオルで拭き上げた。腕にも背中にも日本人とは違った柔軟な筋肉がついている。これだけ恵まれた体を持っているタイ人が力任せのボクシングをするのはもったいない。もっとスタイルを磨き上げて、この選手が世界王者になれるように研究を重ねて頑張っていこう。
「ケンさん、自分でも手数が少ないのはわかっていました。スタミナ浪費が怖くてつい一発狙いになってしまっていたんです。少しリズムや打ち方を考えるだけで、パンチってこんなにスムーズに打てるんですね。勉強になりました。もっともっと練習して必ず世界を獲ってみせます」
そう満足そうに話すペッマニーの理解の早さがうれしかった。
ホテルに戻り、プールでひと泳ぎ。きれいな夕暮れの空を見ながら、タニヤのバー、リスペクトンの日本人オーナーNさんからの連絡を思い出していた。
ずんぐりしたリスペクトンのスタッフ、ビッグ君が31歳の若さで亡くなったという。いろんな憶測が交錯していたが、最近ノイローゼになっていたらしく自殺だと聞いた。薬を大量に服用し、ボロボロになっていたという噂だ。
いつもニコニコ笑顔で応対してくれて、店に顔を出した時には、カウンターでタイ語のレッスンをしてくれていた。
あんなに明るいビッグ君がなんで自殺なんかを選んでしまったのか。周りにも何の相談もしていなかったという。
ずいぶんさみしいことをするじゃないかと、怒りがこみあげてくる。
冗談ばかり言っていたビッグ君、最後に最低の冗談だな。
疲れたんでしょう。ゆっくり休むんだよ。
腹が立って仕方ないから、葬式にはいかないよ。
名古屋の友人、NさんとIさんからタイに着いたと電話があった。これから夜の街に繰り出そうという二人にビッグ君の訃報を話すと、
「リスペクトンに行こう。今日はずっと彼の話をしながら飲んでやろう」
わざわざホテルまで迎えに来てくれた。
ビッグ君を偲びながら、いろんなことを考えた。
死んでしまえばそこで終わりだ。死ぬのはいつだってできる。投げ出したくなるキツい事は今まで何度もあった。大した苦労じゃなかったのか、己がタフだったのかはわからない。今、死ぬこともなくこうして生きている。
生きてさえいればいつかマシな日が来るだろうと、ただそれだけを信じてこの歳まで生き延びてきた。
これからもそういうふうにしてやっていくんだろうと思う。
ビッグ君のご冥福を祈ります。