拳を固めてサワディカップ21-5
普段は5.6日のタイトなスケジュールでタイに来ていたが、今回は10日間の滞在。たった5日ほどの差だが、時間に余裕があるというのはいいものだ。あくせくすることなしに毎日過ごすことができる。
次から次へと休みなしに滞在スケジュールを立て、その通りに行動することに正直疲れていた。
これではツアーの旅行と何も変わりはしない。旅慣れた人は予定も立てずに気の向くまま、漂うように旅をするという。そのためにしっかり余裕を持った日程を組み、流れに任せて漂う自分自身を楽しむのだという。気に入った場所が見つかれば、そこにひと月でも数か月でも滞在する。何からも縛られることのない実に贅沢な旅だと思う。
いつかそんな旅をしてみたいものだ。
8月29日、30日はジムは休みだ。31日に行なわれるペッマニー対田中教仁(三迫)のWBC(世界ボクシング評議)ミニマム級タイトルマッチのため、チャッチャイをはじめ、ジムの連中は一足先にナコンラチャシーマ入りしているという。丸一日予定がないというのは本当にありがたい。
プールで1時間ほど泳ぎ、チャン・ビールを飲みながらいつもの日光浴。午後からは、目覚ましい開発でぐんぐんと延伸しているBTS(高架鉄道)に乗り、当てもなく思いついた駅で降りて、知らない街を散歩する。屋台やカフェに入っても、バンコク中心部と違って、メニューに英語や日本語表記がない。もちろん店員たちも英語で話しかけてくれるわけでもなく、外国人へ特別な配慮もない。タイ人の日常が当たり前のように繰り広げられている。特別扱いされることのない、街に溶け込むような時間。それが何より心地よかった。
2日間すっかりリフレッシュした8月31日。友人のビーさんと12:00にドンムアン空港で待ち合わせ。ビーさんの運転する日本製のミニバンで片道4時間のナコンラチャシーマへ向かう。本当は国際免許を取得して、ビーさんと交代しながら運転しようと思っていたが、仕事が忙しかったせいで今回は取得できずビーさん一人に任せっきりになってしまった。
やっとのことでセーブワン・マーケットに到着。広い敷地のマーケットの駐車場スペースに巨大なテントが建てられたいつもの特設リング。控室に行くとやや緊張した面持ちのペッマニーがいて、私の顔をみるとはにかんだような笑顔でテーピングをしてくださいと駆け寄ってきた。相変わらず粘着力の強いタイ製のテーピングで、チャンピオンの拳をガチガチに固めていく。早くも臨戦態勢に入り、燃えるような目をしたペッマニーは、緊張なのか、挑戦者への警戒心なのか、「少し締め付けがキツイ」「手首の可動域を広くしてほしい」など、いつもより注文が多い。
「チョーク・ディー・ナ(幸運を祈る)」
そう声をかけ、リングへ送り出した。
序盤の1.2.3ラウンド、挑戦者、田中の出来は出色だった。スピードあふれるボクシングでどっしりしたスタイルのチャンピオンを翻弄する。3ラウンドが終わった時点でコーナーへ駆け寄り、
「いくら地元とはいえ、こんな展開ではだめだ。ペースを取り戻せ。田中は最終回まで押し切るスタミナを用意しているはずだ。スタミナの心配なんかしなくていい。先に仕掛けて前に出ろ」
そう指示すると、意を決したようにペッマニーは打ち合いの展開に飛び込んでいった。もともとこちらはタフネスとパワーには自信がある。5ラウンドにはすっかりペースを取り戻し、7ラウンドにはワンツーの連打で挑戦者を防戦一方に追い込んだ。
挑戦者、田中も簡単には引き下がらず、ボディ攻撃を中心に必死に食い下がる。
「打ち合い上等で行け。ただし、打ち合いの最後にパンチを放っているのはお前だ。打ち勝つ展開を作れ」
インターバルの間にそう指示する。両者、歯を食いしばって一進一退の我慢比べは延々と続く。
試合は最終回までもつれ込み、中盤からの盛り返しが功を奏し3-0の判定でペッマニーは3度目のタイトル防衛に成功した。
猛暑の上、中盤から攻めまくったペッマニーは相当体力を消耗していたのだろう。試合前よりも一回り以上体が小さくなったように見えた。
タイ人特有のスロースターターなのはわかるが、こんな序盤の展開では、もし挑戦者が一撃必殺の強打を持っている場合、そこで試合が終わってしまう可能性だってある。前半戦の戦い方やペース配分等、大きな反省点が見つかった試合だった。
防衛に成功したにもかかわらず、序盤の劣勢にしょげ込んでいたペッマニーだったが、控室に恋人が入ってくるとやっとほころんだような笑顔を見せた。
「年末か年明けには彼女と結婚するんです。彼女の為にもずっとチャンピオンでいないといけないから、もっともっと練習してもっともっと強くなります」
厳しい防衛戦が続くと思うが、その意気で頑張ってほしい。タイトル防衛おめでとう。
世界戦の生観戦は本当に疲れる。ましてや自軍の選手ならなおさらだ。帰りの道中、ビーさんの運転する車中は無言が続いた。ランシット駅まで送ってもらい、タクシーに乗り換えプラディパッドのホテルへ戻る。
ベッドで横になっていると、フロントから電話。
「タイトル防衛おめでとうございます。フロントからビールとシャンパンのプレゼントがあります。これからお部屋にお持ちします」
ホテルから眺める美しい夜景とチャン・ビールがどんよりとした疲れを癒してくれる。不思議なことに爆発するような喜びはない。またひとつ仕事が終わった。そんな気分だった。
日本のジムでの20年間。解放されたと思ったら、また新しいものに縛られ始めている。そういうものかもしれないなと思うと、なんだかおかしくなってきた。
明後日の帰国までは何も用事はない。誰にも会わず、また田舎の町でものんびりぶらぶらしてみよう。
長いトンネルをくぐり抜けたように、2022年の夏が終わった。