拳を固めてサワディカップ25-2

4月15日、大阪の陽光アダチジムから、ライト級6回戦の海外遠征の依頼があった。
すぐにタイ・サイドと連絡を取り、青島氏とシンマナサックジムの協力ですぐにまとまった。ゴールデンウイークを挟む前に、JBC(日本ボクシングコミッション)からの海外遠征許可証を取り、航空券を手配。5月22日、シンマナサックジムでの試合が決定した。無敗のホープ、山口楽人選手の試合を観戦したことがなかったので、改めて動画で過去の試合を観る。父親がトレーナーをしているという親子鷹の山口選手は、バランスのいい好選手で、長身から繰り出される基本に忠実な左右のストレートは将来を感じさせる。初の海外遠征ということだが、健闘を祈りたい。

日本でのたまりにたまった仕事を片付けた後、5月17日、福岡国際空港から、エアアジアでバンコク・ドンムアン空港へ向かう。予定よりも20分も早く到着し、イミグレーションもガラガラ。スマホのシムを買って、いつもの喫煙所でまずは一服。照り付ける強い日差しと生暖かい風が気持ちいい。

この時期は、常夏のタイにあっても、年間を通して一番暑い。ホテルのチェックインが15:00からだから、まずは、タクシーに乗り、タニヤにある、タニヤ・スピリッツで円をバーツに両替。サラデーン駅前のコリアンレストランでレッド・チキンとビールでひと息つく。昼間のシーロム界隈を散歩した後、タクシーを拾い、プラディパッド4にある、グランドイン・ラマ6ホテルに到着。

同行した妻はきれいなホテルに大喜び。まだ14:00と時間が早かったが、ダメ元でフロントにお願いすると、「部屋はご用意できていますから、今からどうぞ」とすんなり無料でアーリーチェックインさせてくれた。

のんびりする暇もなく、支度をしてサーサクン・ジムへ。

ヨードモンコンの表情がいつもより引き締まっている。6月24日、東京での比嘉大吾対策に右のショートカウンターをみっちり指導する。朝練のおかげで、パンチを打ち出す際の蹴り足も強くなり、パンチの強さや切れが増したが、まだ腰が高い。背の低い比嘉のアゴをとらえるには比嘉と目線を合わせるくらいの低い高さで構えなくてはいけない。このままでは比嘉の額を打ってしまい、拳を痛めてしまう。比嘉を想定してミットを低い位置に構えるが、どうしてもミットの上部にパンチが飛んでくる。もっと足腰の強化を徹底したい。

朝の走り方も格段に良くなったようだ。ジムワークでの動き方を見たらわかる。ラウンド中に休んでいる時間がずいぶんと短くなった。暴風雨のような比嘉のラッシュや振り回してくる強打のインサイドから、技ありのカウンターを決めてキャンバスに沈めたい。日本でやる以上、判定では勝てないだろう。練習後にヨードモンコンやチャッチャイと戦術を話し合った。皆、同じ考えだった。序盤は比嘉の猛攻をしのいで、単調になった比嘉にカウンターで勝負をかけ、後半までにノックアウト。この一点に絞り、明日からも頑張ろう。

4月16日に東京で予定されていた、WBCミニマム級タイトルマッチ、パンヤ対重岡優大(ワタナベ)の試合は中止になった。契約上のゴタゴタが続いたうえ、パンヤがインフルエンザになってしまい、入院を余儀なくされた。せっかくテレビ用のインタビューも済ませたのに、すべて無駄になってしまった。まずはしっかりと体を休め、完全に回復してから、また仕切り直したい。

19:00、青島氏とプラディパッド通りのタイ・レストラン、ラカンドンで待ち合わせ。ここ最近のマッチメイクの経費の精算をし、22日のシンマナサックジムでの興行のスケジュールについて打ち合わせる。いつもの美味しいタイ料理に舌鼓を打った後、タニヤのバー、リスペクトンに行き、みんなでカラオケを楽しんだ。

ホテルに戻ると、母親から連絡があった。

2歳上の兄が息を引き取ったそうだ。あまり仲が良くなかったので、ずいぶん会っていなかったが、若いころからの不摂生でずっと体を悪くしていたという。まだ53歳。余りにも若すぎる。お互いもう少し歳を取ったら、仲直りして、昔の話を笑いあえる日が来るはずだと、漠然と期待していたので、しばらく呆然としてしまった。もう少し早く連絡を取るなり、歩み寄るなりして、積極的に関係を修復すればよかったと激しく後悔する。

なんとなく、先延ばしにしていた罰が当たったんだと思った。大事なことは、絶対に先延ばしにしてはいけない。わかっていたつもりだったが、実は何にもわかっていなかった。

「葬儀はしないから、予定変更はしなくていい。気を落としすぎずに、しっかりと仕事をして帰ってきなさい」

母親からはそう言われたが、どうにも気分は落ち着かず、この日はなかなか寝付けなかった。