拳を固めてサワディカップ25-5

5月22日、9:00起床。ホテル前の屋台で50B(200円)のガパオライスで簡単に朝食を済ませた後、部屋に戻っては早めの身支度。

10:00にタクシーを手配し、青島氏を拾って一路、シンマナサックジムへ向かう。2時間近くかかってやっと到着。会長のパーファイに挨拶をしていると、パーファイの息子の元WBCバンタム級、スーパーフェザー級チャンピオン、シリモンコン・シンマナサックがミネラルウォーターを持ってきてくれた。

「お久しぶりです。ヨードモンコンの調子はどうですか?日本で比嘉大吾と試合をすると聞いています。しっかり鍛えてあげて、必ず勝たせてください」

「問題ない。いい調子で仕上がっているよ。必ず日本で比嘉をノックアウトしてみせる」

そう言いながらも、少し複雑な気がしたが、すっかりタイ陣営になってしまったんだなと再確認する。

今回マッチメイクした62.0kg契約の4回戦が始まる。

陽光アダチジムの山口楽人は長身のスタイリッシュなアウトボクサー型で、対戦者のヌクル・二マックは一回り小さく見える。

試合はあっさり決まった。ⅰラウンド2分59秒、右ストレートからのラッシュでヌクルはキャンバスに深々と沈んだ。基本に忠実な山口選手のボクシングをもう少し見ていたかったので、ヌクルにはもう少し頑張ってほしかった。

残りの試合を見ていると、元WBC・IBFライトフライ級チャンピオン、サマン・ソー・チャトロンが肩をたたいてきた。

「ケンさん、久しぶり。相変わらず忙しそうですね。これからもチャッチャイの選手たちの快進撃を支えてくださいね」

人懐っこい笑顔で励ましてくれた。

サマンに質問する。

「最近のタイのボクサーたちはパンチがないし、ボクシングがこじんまりしているように思います。あなたのようなエネルギッシュなハードパンチャーが少なくなってきているのはなぜでしょうか?」

「タイは経済的に発展してきているので、かつてのようなハングリーなボクサーが減ってきているのが原因だと思います。昔は拳一つで身を立ててやるといった激しい意気込みがありました。国や国民が豊かになるのはいいことですが、ボクシングに関しては少し寂しい状況ですね」

やはりそうか。かつて日本も高度経済成長を経て、ハングリーなボクサーがいなくなった。しかし、一周回って、アスリートとしての優秀なボクサーが近年生まれてきている。豊さをたっぷりと満喫した後、その先にある何かに飢えた若者が台頭してくる時代が必ず来るはずだ。現在うちで抱えている二人の世界チャンピオンが陥落した後、豊かになりつつあるタイのボクシング界には冬の時代が来るだろう。次の新世代が台頭してくるまでの厳しい期間、楽ではないだろうが、タイのボクシングの灯を消さないよう、微力ながら頑張っていこう。

ジムの向かいにあるシンマナサック経営の食堂で、ビールとシリモンコンのお母さん特製のおかゆをごちそうになる。これがびっくりするほどおいしかった。下手なタイ語でお礼を言うと、昔は美人だっただろうなというお母さんは、前歯の抜け落ちた顔でガハハと豪快に笑った。太陽のようなまぶしい笑顔だった。

「これからも息子をよろしくね。がんばるのよ」と何度も何度も握手をしてくれた。

汚いどぶ川の上に建てられた掘っ立て小屋の食堂で扇風機の風を浴びながら、煙草を吸い、濁った川を見下ろしていると、向こうのほうで近所の子供たちが大きなナマズを釣っている。今日のおかずになるのだろうか、実にのどかな光景だった。こんなひなびた田舎の村から、シリモンコンのような世界王者が生まれたんだと思うと感慨深い。やはりボクシングには夢がある。もし彼がボクシングをやっていなければ、彼も一日中この川で魚を釣る毎日を過ごしていたのだろうか。

「拳一つで巨万の富を」

日本ボクシングの創始者、渡辺勇次郎はかつて門下生の前でこう言ったという。

若いころ、明るい未来を夢見て、夢中で走り続けた時代があった。その夢には手が届かなかったが、後悔は一切ない。むしろあの頃をいとおしく思うほどだ。人生晩年にさしかかった今、これからは若い世代に夢中で駆け抜ける楽しさを教えてあげたい。

元世界ヘビー級チャンピオン、ジョージ・フォアマン(米国)は自伝の中で、

「なんでもいい。夢中でやり抜くことだ。夢がかなわなくたって落ち込むことはない。夢中で駆け抜けたなら、そいつはほかの何かをきっと手に入れているはずだ」

そう語っていた。いやなことがある度、自信がなくなる度に、何度この言葉に励まされたことか。

新米マッチメイカーにはこれからもいろんな困難が待ち受けているだろう。若いころ目指した42歳での隠居の夢はすっかり遠のいた。それどころか新しい夢までできてしまった。何も目指さずに平和に過ごしていれば楽なはずなのに、新しいものをしょい込んでしまう。かつての師匠、関会長から教わった「どうせやるなら」「元気が一番」。

この言葉を胸に、ギスギスした日本へ明日帰国する。

シリモンコンのお母さんのようにガハハと笑って頑張っていこう。