拳を固めてサワディカップ26-2

シリチャイが比嘉大吾にやられた精神的ダメージは本当にひどかった。しかし落ち込んでいる暇はない。

試合の翌日の6月25日、朝6:00にホテルをチェックアウトして日暮里駅から成田空港へ。昼過ぎに福岡についた後、懇意にしている春日の三松スポーツジムの興行を観に、春日クローバープラザへ。ゲストで招かれていた元WBAライトフライ級チャンピオン、具志堅用高氏に挨拶をして、フレッシュファイトを堪能。清川の事務所に戻り、たまった仕事を片付ける。コロナ騒ぎもだいぶ落ち着いてきているようで、集客チラシの案件が山積みになっている。末端の現場ではあるが、経済復興の歯車の一つに関われているのをうれしく感じる。

日本には穏やかな四季があるといわれているが、それは昔の話だ。一年の半分は猛暑で、もう半分は寒い毎日が続く。快適な気候の期間など、年にひと月もないんじゃないか。ポスティングを生業としている弊社、現場の配布員の方たちには本当に頭が下がる思いだ。

各方面への業務報告、猛暑に向けてのバイクのメンテナンス、家にも帰らず二日間かけて、ようやく仕事がひと段落したところで、6月27日早朝、福岡国際空港からドンムアン空港へ出発。

ドンムアン空港には青島氏が迎えに来てくれていた。アマリ・ホテル内のレンタカー屋で青島氏が手続きをしてくれている間にすかさず喫煙所で一服。真っ青ないつものタイの大空だった。

これからパタヤの隣町、ラヨーンに向かう。

暫定王者、重岡優大(ワタナベ)との統一戦が流れ、仕切り直しの間にブランクを作るわけにもいかないので、急遽決まった田中教仁(三迫)の挑戦を受ける、パンヤ・プラダブシーのWBCミニマム級タイトルマッチに駆けつけることになった。

青島氏の運転で一路、ラヨーンへ。これだけタイに来ておきながら、実は一度も観光地やリゾート地に行ったことがない。試合が終わったらビーチでのんびりしてみたいとたくらんでいた。いつもバンコク市内の騒々しいところでしか過ごしたことがなかったから、今回の楽しみの一つではあった。

3時間かけてプラーイ・プラスホテルに到着。

チェックインしてすぐに、計量会場へ行き、そのあとレフェリー、ジャッジを含めた関係者たちとチャイニーズ・レストランで会食。元WBCフライ級チャンピオン、内藤大助を育てた宮田ジム会長、宮田博行氏と再会。相変わらず腰の低い方で、ボクシング談議に花が咲き楽しかった。

ホテルの部屋が禁煙だったため、毎回ロビー外の喫煙所に行かなければいけなかった。数回目の喫煙所で、挑戦者のジムの三迫貴志会長とバッタリ出くわし、喫煙所で話し込むことになった。

「先代の親父は世界ジュニアミドル級チャンピオン輪島功一、WBAジュニアミドル級チャンピオン、三原正、WBCライトフライ級チャンピオン、友利正を輩出してきた。親父亡き後、ジムを受けついたが、まだ親父のように世界王者を作っていない。今の俺は執念の塊だ。世界王者を作らないとこのままでは終われない。順当にいけばオタクのパンヤーが勝つんだろうが、我々は今回、田中の引退覚悟でこの一戦に賭けてきた。執念の力を見くびるとたいへんなことになるよ」

物騒な顔でにやりと笑ってそう言った。

部屋に戻ろうとすると、ロビーのソファにパンヤーが一人で座っていた。熱心にスマホの画面を眺めている。

「なにしてんの」そう声をかけると、おなかが大きくなった奥さんの写真を見せてくれた。

「結婚した話はしましたよね。年末に子供が産まれるんです。来るなといったんですが、嫁がどうしても来たいと言って今回ラヨーン入りしているんです」

「それで?」

「ケンさんからいろんなことを教えてもらいましたが、僕にはやっぱりセンスがありません。打たせずに打つなんてきれいな芸当はできない。相手のパンチに耐えて耐えて耐え抜いて、打ち合いに巻き込んで力で倒すボクシングしかできそうにないんです。僕はたくさん打たれるボクサーです。その姿をあまり身内には見せたくないんです」

「明日は勝てそう?」

「僕は鉄人です。ベルトは誰にも渡しません」

ハンサムボーイがひきつった笑顔で静かに語った。自分に言い聞かせるような語り口だった。

「明日はお前の日になるよ。迷わずに戦いなさい」

そう言ってパンヤーを部屋まで送り届けた。

部屋に戻るとすぐに、東京での疲れが残っているせいか、泥のように眠った。

6月28日、快晴。

試合が夕方からなので、青島氏と車でセンチャンビーチに繰り出した。ひなびた感じだったが、実にのどかで快適なビーチだった。屋台のフレッシュージュースを買ってのんびりしていると、今日が世界戦当日だということが信じられない。そのくらいのどかでいいビーチだった。

昼食を摂りにビーチ沿いのレストランに入ると、偶然チャッチャイ一行と鉢合わせ。チャッチャイの愛犬、ラッキーも同泊するためにセンチャンビーチ近くのホテルに泊まっていたそうだ。今日の戦略を話し合う。タイ人のチャッチャイは「マイペンライ(問題ないよ)」とお気楽だったが、昨日の三迫会長の一言が気になって仕方ない。

「ケン、気持ちはわかるが、ここまで来たら、不安材料を並べ立てても仕方ないじゃないか。パンヤーのいいところを伸ばすことに全力を尽くそう」

確かにそうだ。うなずくしかなかった。

17:00試合会場のホームプロへ。複合商業施設の広大な駐車場にいつもの屋外テントの中に、特設リングが設営されている。

控室のテントの中で、パンヤーと会う。覚悟が決まったいい顔だ。

「ケンさん、今、軍人のような気分です。前回はパッとしない試合でチャンピオンとしての強さを見せられませんでしたね。今回、チャンピオンらしい試合をしてケンさんにKO勝利をプレゼントします。以前、ケンさんから、「お前は線が細いから世界王者にはなれない」と言われたことを否定してみせます」

テントの外で身重の奥さんが不安そうな顔でこちらを覗いている。

パンヤーの全身にワセリンを塗る。張りのあるいい筋肉だ。眉毛や瞼にワセリンを塗るときが一番好きだ。静かに目を閉じて、誇張や虚勢がない、静かな凄みの顔を一番真近で見ることができる。

リング上がると、これから人を殺してしまいそうなギリギリの表情の挑戦者、田中教仁が青コーナーにいた。

身を捨てる覚悟の男の顔だと思った。

第1ラウンドのゴングが鳴る直前、コーナー下にいる私にパンヤーが静かな微笑みを投げかけてきた。