拳を固めてサワディカップ29-1
2023年10月6日、福岡空港から成田国際空港へ向かう。
今回はフライトの段階から、どうにも気持ちが落ち着かなかった。仕事を前倒しでバタバタと片付け、早めに空港へ着いたにもかかわらず、どうしても胸のざわつきが止まらない。集中しているようで、それでいて上の空のようで、窓の外の景色を見る余裕もなく、到着までの記憶がすっぽりと抜け落ちている。
明日は、WBC(世界ボクシング評議会)ミニマム級統一戦、王者、パンヤ・プラダブシー(タイ)対暫定王者、重岡優大(ワタナベ)の12回戦が大田区総合体育館で行われる。4月16日開催決定からの、パンヤのインフルエンザによる延期。両陣営とも自国での開催を頑なに主張したため、交渉は決裂。WBCから入札命令が下され、重岡陣営の亀田プロモーションが落札。日本での開催という運びになった。
日本人でありながらタイ陣営として、日本人対戦者を迎え撃つ。心情的には複雑だったが、ここまでパンヤと築き上げてきたものを東京のリングで披露する。機内でのあの落ち着かなさは、少年時代からの夢だった、東京で世界タイトルマッチのリングに上がるという、高揚感と恐怖心からくるものだったのかと気が付いた。
空港直結の成田エクスプレスで上野駅へ到着。タクシーに乗り換え、計量場所の東京ドームホテルへ。受付で関係者パスを受け取り、ロビーで関係者諸氏に挨拶をしていると、JBC(日本ボクシングコミッション)のレフェリー、ジャッジたちから、
「日本人が出場する世界戦の相手方に、日本人がついているというのは稀な例ですね。複雑な思いでしょうが、国の垣根を超えたいい試合を期待しています」
そう励ましていただいた。
控室に顔を出し、パンヤ、スィアタン、青島氏、チャッチャイと握手して再会を喜んだ。パンヤの顔色がいい。減量も順調にいったのだろう。頬がこけることもなく、実にリラックスしたいい表情だった。
計量はともに一発でパス。検診も問題なく、フェイスオフや記者会見も紳士的に終わった。
タイ陣営を青島氏とタクシー2台に分乗して、蒲田駅前のアパホテルへ送り届ける。計量が終わった安堵感なのか、まだ頭の中がボーっとしている。道中の車内では選手と会話もせず、「東京のタクシーメーターは上がるのが早いなあ」なんてくだらないことを考えていた。
気温はそうでもなかったが、風が強かったので、風邪でもひいてはいけないと、外食は控えて、ホテル内で食事をさせることにして、青島氏と二人で、蒲田駅前商店街の居酒屋で夕食をとった。
この日はあまりビールも進ます、早めにホテルに戻って就寝。0:00を過ぎても、なかなか寝付けなかった。
10月7日、決戦当日。
チサンホテルを出て、陣営の待つアパホテルへ迎えに行く。パンヤの目が少し腫れぼったいような気がしたが、これは水分の摂り過ぎではなく、8時間ぐっすり眠ったからだと聞き、ひと安心。
セミファイナルのパンヤの出番は20:00過ぎだと聞いていたが、入場リハーサルや時間割の打ち合わせのため、14:00と早めに会場入りした。本音を言えば、窮屈な控室で数時間も過ごさせるよりは、ホテルの部屋で少しでもゆっくりさせていたかった。さすがに世界戦の大舞台ともなれば、放映スケジュールや、大掛かりな演出のために、こちらも協力しないといけないのだろう。とはいえ、控室での5時間の待機は、なかなかしんどかった。
控室でチャッチャイと交代で、パンヤのミット撃ち。少しスピードがない。タイで教えた切れのあるパンチではなく、押し込むようなパンチだ。ステップを踏ませると、足の運びも少し重いように見える。一晩のうちに、いや、この数日のうちに、何かコンディションに異常が起きたのか。なんとなく頭をもたげていた不安が一気に膨れ上がる。控室での長い待ち時間の間、
「僕はターミネーターです。ケンさん、心配無用です。僕は立派に戦ってみせます。無事に娘も産まれました。彼女のためにも、僕はベルトをタイに必ず持ち帰ります」
パンヤは何度も自分に言い聞かせるように語りかけてきた。
長い待ち時間の後、リングイン。爆音が流れる中、チーム・パンヤ全員で胸を張って入場した。パンヤのすぐ後ろでWBCのベルトを高く掲げて一歩一歩、花道を歩いた。目の前に見えるリングはなんとなくいつもより高いところにあるように見えた。パンヤと一緒に駆け上がった、東京の世界戦のリングはとても広く見えた。
10歳から、ボクシングを始めて、世界王者になることを信じて疑わなかった。才能はきっとなかったと思う。それでも、高校のボクシング部に入ったときには、幼いころから憧れていた天才ボクサー、関博之がコーチとして指導してくれた。夏休みを利用して、大阪のグリーンツダジムに出稽古に行き、伝説のトレーナー、エディ・タウンゼントさんにワンツーを教えてもらった。ボクシング生活での人との出会いは申し分なかったように思う。
ただ、ひとつのことを追いかけるために、無駄なことを捨てるということを知らなかった。遊びもしたい、酒も飲んだ。煙草も隠れて吸った。これだけ恵まれていたのに、なんとしても願いをかなえるんだという、肝心の純情が、情けないほど欠落していた。未熟な今という点と、世界王者になるという点を、努力という線で結ぶということをしなかった。
「チャンピオンになりたい」
こんな柔らかな意志では到底なれるはずがない。
「チャンピオンになるために、余計なものはすべて捨てた」
「俺がチャンピオンになれないのはおかしい」
「チャンピオンにならなければ残りの人生はないも同然」
歴代のチャンピオンたちは、夢を漠然と願わずに、その夢を叶えるべく、当たり前のようにその道を歩いていったという。
やわな意志で挫折をして、指導者としてヨロヨロとボクシングにしがみつき、かつて10歳の時に願った世界戦のリングに、どうにかやっと立てた。
ボクサーではなく指導者としてだったが。
憧れの世界戦のリングで歌った国歌は君が代ではなく、タイ国歌だったが。
ボクシングをやっていたころの自分の甘さを身に染みて感じていたから、30歳からの指導者としての生活は、もう二度と同じ失敗をしないようにと全力で当たってきた。全力ゆえの失敗はたくさんあったが、反省はしても後悔はなかった。
関ジムで指導者をしていた頃の、2度の日本タイトルマッチ、全日本新人王輩出。選手との行き違いでの悔しい別れ。
いろんなことがあったが、それらのおかげで今、東京の世界戦のリングに立つことができた。
タイ国歌を歌いながら、
「幼いころに見た夢が叶うのに、40年もかかってしまうのか」
と、恐ろしいくらいの時間の経過の早さと、道のりの長さに愕然とした。