拳を固めてサワディカップ30-3
- 1月11日、9:00起床。バルコニーからの鳥の声で目が覚める。気持ちのいい朝だ。
ムアンタイパトラ市場へ散歩がてら、朝食の買い出しに出かけた。
タイの人々は、本当に朝が早い。自宅で自炊をする習慣が少ないので、彼らは毎食、市場や商店にテイクアウトの食事を買い出しに行く。この日も市場の総菜屋は、地元の人々の朝食の買い出しでごった返していた。ホテルに戻り、プールサイドで買い込んできたガイトート(鶏のから揚げ)、パッカパオ(ひき肉の香辛料炒め)、カオニャオ(もち米おにぎり)をビールで流し込む。朝っぱらから、なかなかの重たい朝食だが、タイのさわやかな気候も相まってか、ぺろりと平らげた。
プールでひと泳ぎした後、ラチャテーウィのタイマッサージ屋へ。まだ午前中だというのに、数年来の友人、オカマのマイラヤーはもう出勤していた。
「久しぶりね。コロナが落ち着いたせいで、ドバイやシンガポールへのコンパニオンの仕事が激減して、また貧乏生活に逆戻りよ。2時間のロングコースにしてよね」
相変わらず商魂たくましい。
「あっちでたくさん稼いだんだろう?しばらくは遊んで暮らせるんじゃなかったのかよ」
そう聞くと、
「羽振りのいい客と長いこと過ごしていると、気が大きくなっちゃって、散財もすごかったのよ。整形したり、ブランド品を買い漁ったりして、すっからかんよ。しばらくはブランド品を売りながらまたマッサージ師やダンサーで、細々とやっていくしかないわ」
計画性がないといえばそれまでだが、あまり物事を深く考えず、快適を素直に追及する彼女に、少しうらやましい気もした。
会社経営なんてものをやっていると、少しくらい経営が上向きになったとしても、「今後何があるかわからないから」なんて思って、息抜きする暇もなく、つい、今後、起こるかもしれない不慮の事態に備えてしまう。
毎日を楽しむ余裕がなくなってきている気がする。浮き沈みはありながらも、稼いだカネをパッと使って日常を楽しめるマイラヤーと、堅実に、ただ、堅実にと守りを固めている自分、どちらが人生や毎日を楽しめているんだろうと、考えさせられる一幕だった。
やはりマッサージはオカマに限る。力強いマッサージで、昨日までの疲れが一気に取れた。いつもよりも多めのチップを奪い取られ、タクシーでホテルに戻る。
14:00、grabアプリでタクシーを手配し、サーサクン・ジムへ。激しい渋滞のせいで、いつもは1時間足らずのところ、今日は2時間近くかかってしまった。早めにホテルを出発してよかった。
しっかり者の性格を買われ、いつもジムの開け閉めをしていたヨードモンコンの姿が見えない。連絡してみると、
「ケンさん、お久しぶりです。前回の比嘉大吾戦で、ちょっと燃え尽きちゃったかな。今は、田舎のほうで、自分のジムを立ち上げる準備をしているんです。とはいえ、カネになるビッグマッチがあればもちろん声をかけてください」
長いこと彼のコーチをしてきたが、やはり、いつまでも同じままではいられない。寂しい思いもあるが、
「そうか、おつかれさん。君と一緒に汗をかいた時間は忘れないよ。今後は、ジム経営者としての成功を祈っているよ」
そう言って電話を切った。
この日もアヌチャイとマンツーマンの猛特訓。
ジャブ、左フックは申し分ないが、右ストレートの距離感が悪すぎる。ミットの奥行きの距離を変えると、途端に的中率が下がる。ショート、ミドル、ロングと3種類の右ストレートを繰り返し教え込む。
海外の選手にありがちな、力任せのパンチしか打ってこなかったのだろう。攻撃の幅があまりにも少なすぎる。このパワー重視のボクシングは、ツボにはまれば抜群の強さを発揮するが、世界のトップレベルになると、簡単には通用しない。
世界の頂点を争うレベルになると、力だけでは勝ち続けるのは難しい。世界ランカーになると、ほとんどの選手の戦力はほぼ互角だといっていい。わずかなミス、ほんの少しの隙、ここをいかに埋めるかが勝敗に大きくかかわってくる。
先にミスをしたほうが負ける。
うちのタイ選手たちは皆、攻撃力は申し分ない。ただ、世界の一線級でやっていくには、世界の頂点にたどり着くには、あまりにも粗すぎる。毎回思うことだが、彼らのその粗い、隙の部分を少しでも埋めていきたい。
お気楽な快楽志向のタイ人には、こんな日本人がしつこく教える、基本重視の反復練習は、うんざりするほど退屈で、楽しくない指導だろうなとは、わかっている。
ただ、嫌われ上等でしつこく彼らに教え込まないと、彼らを世界の頂点に君臨させることなんてできやしない。
選手が強くなってくれるなら、毎日うんざりされてでも構わない。試合が終わって、世界のベルトを腰に巻いたとき、
「こういうことだったんですね」
その時、わかってもらえるために、これからも毎日毎日、うざい指導者であり続けますよ。
意地悪な日本人トレーナーは、ミットを受ける際、なかなか「ナイス!」と言わない。数パターンの距離を変え、「そうじゃない、ああじゃない」と、無理難題を吹っかけてくる。悔しそうにこちらを睨みつけ、強打を打ち込んでくるアヌチャイが、やっと、ナイスパンチを炸裂させたとき、納得したように「うんうん」、「よし、これだ」と、うなずいている。
その調子。もっと、もっとだ。もっと強くなりなさい。
ここまで無敗でIBF(国際ボクシング連盟)バンタム級5位まで駆け上がって来たアヌチャイ。
世界戦のリングまでもう少しだぞ。