拳を固めてサワディカップ32-2

4月19日、2日目。

7:30、建設重機のけたたましい音で目が覚める。ホテル裏の空き地に何か新しく建てるようだ。こんな人数で大丈夫か、と心配になるほど、少人数で作業に当たっている。バルコニーから煙草を吸いながら眺めていると、10分働いて10分休憩。施工主が見たら激怒するようなはかどり具合だった。基礎を見る限り、なかなかのビルを建てるつもりらしいが、この調子では完成までにあと10年はかかるだろう。

二度寝をあきらめて、屋上プールでひと泳ぎ。今日もいい天気だ。プカプカと浮かびながら、比嘉対策を考える。

比嘉はやはり強い。ヨードモンコンが比嘉と対戦した際、これ以上ないタイミングで、比嘉のアゴにカウンターを打ち抜いたが、比嘉はびくともせず、逆に額にもらった比嘉の右一発で、致命的なダメージを負ってしまった。ペットがサウスポーである以上、足を止めての打ち合いでは、比嘉得意の右フックの的になってしまう。セオリー通りに右回りをさせるか、カウンターを狙うべく、比嘉の右を左サイドにウィービングして左ショートを狙わせるか。

毎回、試合の作戦を立てるたびに思う。

相手をキャンバスにたたきつけ、ノックアウトするために、選手の長所を伸ばし、多少の危険を覚悟で攻め勝つ。これまでそうやって勝ってきた。しかし、

「リスクを負いすぎるのはどうなのか。相手のボクシングに付き合わず、相手の長所を殺し、相手の嫌がる、かみ合わないボクシングで相手を空転させるのもまた、ボクシングの勝利の方程式ではないか」

こう考えるようにもなってきた。世界レベルの選手同士では、実力にそう大差はない。その実力が拮抗した者同士になぜ、勝敗が決してしまうのか。

「先にミスをしたほうが負ける」

世界のトップレベルでは、たった一回の、ほんの一瞬のミスで試合の流れが大きく変わる。そして、一度奪われたペースは、よっぽどのことがない限り、取り返すのは不可能だ。長いラウンドの中で、勝負をかけられるタイミングは3回あればいいほうだ。そのため、来るべきチャンスや、相手のミスを見逃さないために、慎重に慎重にラウンドを積み重ねていく。世界ランキング3位まで上がってきたペットに、一か八かの玉砕なんか、させられない。

ペットの攻撃力を前面に出し、比嘉に打ち勝つのか、強打者比嘉の長所を殺すアウトボクシングか。
果たしてどちらが正しいのか。

考えすぎると頭が痛くなってきた。理屈も大事だが、感覚も大切にしたい。ジムに行って、ペットと色んなシチュエーションの練習をして、そこからひらめいた戦術を選ぼう。

14:00、タクシーを手配して、サーマート・パヤカルーンジムへ。少し疲れが残るペットに、ポジション取りやフェイントを交えての先手の取り方を繰り返し教え込む。毎日よく走りこんでいるのだろう。ペットの足は休みなくよく動く。3時間みっちりと鍛えあげて練習終了。

練習後30分かけてペットの足をマッサージしていると、かつて日本でダンサーをしていたオームから電話。

「ケンさん、タイに来てるんでしょう? 前回一緒に食事した彼と結婚して、子供が産まれたのよ。会わせたいから、今晩食事に行きましょうよ」

彼女に女の子が産まれたのは、彼女のSNS投稿を見て知っていた。きっと会うことになるだろうと思って、幼児用のムエタイトランクスとボクシンググローブをプレゼントに用意していた。

チャッチャイと今後の打ち合わせをしたあと、タクシーを呼んで、インタマラ47のBonne Cafeへ向かった。

久しぶりに会うオームはすっかり表情が変わっていた。最後に会ったのは2022年。あのころは、目つきの鋭いクールな美人だったが、今はすっかり母親の顔になり、慈しむような、柔らかい笑顔の、素敵な女性になっていた。

出産おそるべし。

旦那さんのドンも以前よりたくましくなったようだ。

「ケンさん、お久しぶりです。どうにか彼女を射止めることができました。彼女の気性の強さは相変わらずなので、負けないように、職場の軍の施設で、毎日体を鍛えているんですよ」

「体だけ鍛えても仕方ないだろう。中身がたくましくならないと、一生オームの尻に敷かれたままだぞ」

オームがすかさず口をはさむ。

「そうよそうよ。もっとしっかりしてもらわないと。ケンさん、この人をボクサーにして、試合を組んであげてよ。そうすれば少しは気合が入ると思うわ。ほら、うちの子を抱っこしてあげて」

美男美女の夫婦から生まれた女の子は、将来が楽しみになるほど、天使のようなかわいい顔をしていたが、抱き上げた瞬間、盛大に泣き出した。

やはり、めでたい話を聞きながら飲むビールは格別だ。初めてオームと会った時の事やその後のいろんな話をしながら、何度も乾杯をした。

福岡でのダンサー時代、店がフィリピンパブだったから、タイ人であるオームは言葉も通じず、肩身が狭かったこと、そんな思いをして、やっと稼いだ70万円をタイの家族に持ち帰ろうとしていたら、福岡空港で全額、スリに遭ってしまったこと。その後、気を取り直して、熊本・八代のキャバレーで勤めていた時に、コロナ禍が起こり、国際線は全便欠航。タイに帰れなくなってしまったことなど、彼女がいろんな苦労をしていたことは聞いていた。

「今となっては昔話よ。八代時代、コロナでお店も開けられず、寮で毎日、厄介者のような居候状態で不安だった時に、ケンさんが、わざわざ誕生日プレゼントを持って、顔を見に来てくれた時は本当にうれしかった。何のお礼もできないけど、この子を立派に育ててみせるわよ。今やれることをがんばらなくっちゃ」

背中をひっぱたかれた気がした。うじうじ考えても仕方ない。運や相手、自分以外の物を主体に考えるのは所詮、後手だ。どんな場面でも、こちらが主役。男なら、裏なんかかかず、真っ向勝負でいこうじゃないか。

かつてのWBC世界バンタム級チャンピオン、辰吉丈一郎が言っていたことを思い出した。

「反省はしろ。後悔はするな。自分を励ます味方は自分しかいない」

毎日を元気に生きる秘訣は世界共通だ。