番外編
2015年 4月5日 福岡 小倉北体育館
「『絆』とか『仲間』、『感謝』『感動』なんて言葉は大嫌いだから俺の前で軽々しく口にするんじゃないぞ」
ボクシングジムでの練習後、少年を後部座席に乗せ、彼の自宅まで送り届ける車中でトレーナーは19歳の教え子に言った。
2015年の年明け、フィットネスコースの練習生としてボクシングジムに通っていた大学一年生がプロボクサーを目指した。
4月5日のプロテストに照準を合わせ本格的にトレーニングを始めたものの、トレーナーの目には合格の可能性は皆無に等しかった。
体の硬さ、ボクシングの知識の乏しさはさておき、この少年はいい子過ぎた。
「弟や母親たちに対してたくましい兄・息子でいたいんです」
「頑張ってる姿を見せて感動させたいんです、勇気づけたいんです」
トレーナーは返事をせずに淡々と練習メニューを課した。
言われた事をうまくマスターできない。ベテランの練習生からスパーリングで何度も何度も倒される。泣きながら奇声を上げ、やけくそで打ちかかるがいなされ殴られ、また倒される。集中力を切らしたその姿にトレーナーから怒声が飛ぶ。
「最初はみんなそうなんだから、コツコツとやるしかないんだよ」
「急成長なんかないんだよ」
トレーナーは毎日少年に語るが少年の耳には届いていない。トレードマークのキラキラした笑顔も元気な返事も日に日に消えていった。
連日の練習で少年の足の裏はマメができては潰れ、ズタズタになった。見かねた母親から「練習を休ませてください、お願いします」と連絡があった。
トレーナーが課すトレーニングの質も量も変わらない。来る日も来る日も同じメニューを監督し、休日には自宅に呼んでプライベートの話をしながら食事をした。
テスト1週間前、ジムからの帰りの車中で
「自分、受かりますかね」
「ジャッジが決めることなんだから知らねえよ。合否の判断をするのは俺たちじゃないだろ」トレーナーの逆鱗に触れた。
翌日から少年の顔色が変わった。
相変わらず不恰好ではあるものの、あれやこれやをソツなくこなそうとはせずに、ワン・ツーパンチ、これだけに磨きをかけ始めた。
「マメの具合はどうだ」トレーナーが尋ねるとそっけなく「忘れてましたよ。大丈夫っすよ」飾りの言葉が消えた。
テスト当日、二人きりで小倉に向った。車内は沈黙が続き、2時間の間に交わした言葉は筆記試験用の一問一答と
「緊張してるか」
「少しっすね」
の二言だけだった。
テストの2ラウンドはあっという間に終わった。ギリギリの合格。コミッションからワン・ツー以外は未熟だけど、のご指摘をありがたくいただいて二人は握手をした。
「つらかったか」
トレーナーが声をかけた瞬間、ものすごい泣き顔になったのを「まだ泣くな」と制して車に乗り込んだ。
帰りの道中、ルームミラー越しに短い会話を繰り返した。
「ジムの会長に一番に会いに行こう。いいな」
「はい。感謝してます」
「絆ってどういうんだっけ」
「大事なことを大事な人たちとやっていくことです」
「地獄って知ってる?」
「2015年の3月です。一生忘れません」
少し笑った後、
「こういうことだったんですね」
といってプロボクサーの卵が泣き出した。
鬼木海優 プロテスト合格おめでとう