ベストパンチ29

1990年4月4日 米国 ニューヨーク州

WBAインターコンチネンタル・ヘビー級12回戦

挑戦者 ドノバン・ラドック(カナダ)KO4R 王者 マイケル・ドークス(米国)

二度にわたってマイク・タイソン(米国)と死闘を繰り広げたラドック。”スマッシュ”の異名を持つ恐怖の一撃をまざまざと見せつけた衝撃の一戦。

1963年、ジャマイカで生を受けたラドック。学生時代にはバスケットボール、野球で頭角を表すも、世界のトップを目指すにはとボクシングに転向。名コンディショナー、ラリー・マギー(米国)の指導のもと、191cmの長身、208cmのリーチを武器にアマチュアからキャリアをスタートさせる。アマチュア時代にはタイトルには恵まれなかったが、後のソウル金メダリストにして統一ヘビー級チャンピオン、レノックス・ルイス(英国)に黒星をなすりつけたこともある。

プロ入り後は順調なキャリアを重ね、世界ランキングも上昇。1986年8月23日には元WBAヘビー級王者、マイク・ウィーバー(米国)に判定勝ち。1989年7月22日には同じく元WBA王者、ジェームス”ボーンクラッシャー”スミスにも7回KOで勝利。タイソン王朝が続く中、打倒タイソンの最右翼としてマスコミを騒がせ始めたラドックに陣営は最後のテストマッチを用意した。

ラドックより5歳年長のドークス。オハイオ州に生まれ、厳しいスラム街でタフな青春時代を過ごし、18歳でプロデビュー。ヘビー級にしてはやや小柄なこともありコンパクトで手際の良い接近戦を得意とする技巧派ファイター。1引き分けをはさみ25戦全勝(15KO)で時の王者、マイク・ウィーバーに挑み、番狂わせの初回KOでWBAヘビー級タイトルを獲得。その前途は明るく拓けているはずだった。だがこの頭脳派ボクサーは大きな間違いを犯していた。ボクシング界のタブー、ドン・キングプロモーターとサインを交わしてしまっていた。当時、ヘビー級ランカーやチャンピオンはキングの子飼いのボクサーばかりであり、キングの提示する契約を飲まなければ世界挑戦はおろか、ランキングに顔を出すことさえ難しいとされていた。ドークスは世界の頂点に立ちながら雀の涙ほどのファイトマネーしか受け取れず、その後も現在では考えられないほどの搾取の的になることになる。

すっかり憔悴しやる気をなくしたドークスはあろうことか、ドラッグをキメたまま防衛戦のリングに上がり、南アフリカのホープ、ゲリー・コーツイに無残な10回KO負けで王座から陥落。ドークスは終わったと誰もが確信した。

ところが、臥薪嘗胆、リングに戻ってきたドークスは辛抱強くカムバックロードを歩む。元ロサンゼルスメダリストのイベンダー・ホリフィールド(米国)には苦杯を喫するものの、連戦連勝でWBAインターのタイトルを奪取。その2度目の防衛戦に最強の挑戦者が立ちふさがった。

初回から両者の体格差が著しい。左手一本で距離を取るラドックにドークスは為す術がない。ラドックの左ジャブ・左フックはどれも強烈で一撃で試合を終わらせるほど狂気に満ちている。

2回、接近戦から左アッパーを狙うラドックにドークス得意の回転の早いコンビネーションパンチが炸裂する。頭の位置を巧みに変え、上下に手際よく打ち据え、辛抱強く活路を見出そうとする古豪に、マジソン・スクエア・ガーデンの観衆は口笛で背中を押す。左ガードを下げてフリッカージャブを狙うラドックに右クロスもヒットさせた。序盤の滑り出しは決して悪くはなかった。

しかし、盛りを過ぎたドークスに厳しすぎる現実が待っていた。

4回、勢いに乗れないラドックが左の使い方をアレンジする。ガードを高く上げ、下からのパンチに目が慣れたドークスに対し、真っ直ぐや上からかぶせる左フックと微妙に角度を変え始めた。戸惑うドークスは正面突破、ノーモーションの右で若き挑戦者をたじろがせる。しかしこれが昇り龍の挑戦者のトラップだとは気づかない老雄に戦慄のベストパンチが炸裂する。

ラドックには左フックと左アッパーの中間から放たれる”スマッシュ”という必殺パンチがある。スリークォーターから発射されるこのパンチは破壊力もさることながら実によく伸びる。直線に意識が集中してしまったドークスは再び斜め下から飛んできた凶悪の一撃に全く反応できずモロに被弾。コーナーポストに頭を打ち付けて失神してしまう。レフェリーの死角だったため、ストップはかからず更に追い打ちの右クロスから左フック。体が硬直して倒れることすらできないベテランに全体重をたっぷり乗せたスマッシュが再び撃ちぬかれた。眠るようにマットに沈んだドークス。残酷にして鮮やかすぎる新旧交代のコントラストだった。