ベストパンチ32

2003年2月1日 米国 ネバダ州
IBF世界フェザー級王座決定戦
1位 ファン・マヌエル・マルケス(メキシコ)KO7R 4位 マヌエル・メディナ(メキシコ)

メキシコの伝説、リカルド・ロペスの再来と期待されながら、若干の遠回りを強いられた天才技巧派パンチャー、マルケスの初戴冠。
弟ラファエル(後のIBFバンタム級王者)とともに切磋琢磨し、アマチュアで抜群の成績(35勝1敗)を残しメキシコの期待を一身に背負ってプロ入り。
名匠”ナチョ”ベリスタインの元、チャンピオンロードを駆け上がるかと思いきや、デビュー戦で躓いた。
まずデビュー戦を前に、オレンジの木に登った際うっかり転落。背骨に重症を負い2年間を棒に振る。2年後やっと迎えた初戦の相手はコミッションドクターのお抱えの選手であり、露骨な不当采配に合う。1ラウンド、3度のダウンを取るもののKOにならず、続く2回、不可解な反則負け。世界王者になるために必要な「運」に早速疑問符がつく。

しかし、腐ることなく2戦目からは連戦連勝。1999年9月11日、同時多発テロのちょうど一年前、トップコンテンダーとして満を持して時の王者フレディ・ノーウッド(米国)にアタックしたが全盛期の王者と接戦の末惜しくも判定で惜敗。辛抱強くNABOやNABFなどのローカルタイトルを獲得し存在をアピール。そしてこの日マルケスに2度目のチャンス、空位のIBFフェザー級王座決定戦のリングが用意された。ここまで39勝(27KO)2敗。

1971年3月30日生まれのメディナ、そのリングキャリアは驚異的。このマルケス戦後も含めると何と世界フェザー級王座を5度も獲得。柔軟な技巧と恵まれた長身、長いリーチを活かし”マンテカス(バターの滑らかさ)”の異名をとる熟練の名王者だ。
1991年8月12日、荒武者トロイ・ドーシー(米国)からIBFフェザー級王座を奪ったのを皮切りに、宿敵、トム・”ブンブン”ジョンソン(米国)との激闘による王座陥落、そして奪回。天才児、アレハンドロ・ゴンサレス(メキシコ)からの番狂わせの王座獲得や”プリンス”ナジーム・ハメド(英国)との対戦など、その対戦相手の豪華さは特筆モノ。東京でルイシト・エスピノサ(比国)にタイトルを奪われたものの、ベルトへの執念は衰えることなくこの日、若武者の同国人相手にマンダレイベイホテルのリングに上った。メディナここまで60勝(27KO)12敗とキャリア十分。

初回、クリーンな正統派同士のキビキビとした立ち上がり。お互い確かなテクニックでクリーンヒットを許さない。これは長丁場になるかと思われた矢先、次の2ラウンド、早速この試合のハイライトが訪れる。

マルケスのボクシングには勤勉な訓練の匂いがある。高いガードの覗き見スタイルから的確な強打を繰り出すのだが、それは世界王者たちにありがちなその場の閃きによるものではなく、あらゆるシチュエーションや相手の癖を研究し尽くした上でうんざりするほど練習で繰り返し体に叩き込んだタイミングによって発射される。これは後にスーパースター、マニー・パッキャオ(比国)を完全KOした時にも同じ味わいが感じられた。

マルケスの長く正確なジャブを殺そうと、ベテランが長い右クロスを被せようとした瞬間、絵に描いたようなコンビネーションがベストパンチとなって老雄の野望を打ち砕いた。

メディナの右をギリギリまで引きつけながら右足を半歩バックステップ。それと同時にワン・ツー・左アッパーのスリーコンビネーション。これをすべてまともに受けた元王者は前のめりにキャンバスに崩れ落ちた。

老雄は何とか立ち上がったものの、以降も攻めてはドンピシャのカウンター、待てば鋭いステップインに翻弄され7ラウンドストップされ、マルケスが初の栄冠に輝いた。

その後、堅実なファイトで白星を重ね名王者としてその名を不動のものにしたマルケス。やがてフロイド・メイウェザー(米国)やパッキャオとのメガ・ファイトへと駒を進め母国メキシコのみならず全米を熱狂させるスーパースターへと昇華した。