ベストパンチ38

1997年11月22日 大阪 大阪城ホール

WBCバンタム級タイトルマッチ
2位 辰吉丈一郎(大阪帝拳) KO7R 王者 シリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)

誰もが勝てないと思っていた。
それほどタイの俊才のこれからの防衛ロードは盤石に思えた。

かつて、天才と呼ばれた浪速のやんちゃ坊主に、ボクシング関係者のみならず、一般の観戦者たちも彼の将来に期待せずにはいられなかった。「日本ボクシング界の宝」だと。

だがこの日大阪城ホールに足を運んだ観客の殆どは我らがヒーローの最後を粛々と見つめるつもりで来たに違いない。

彼のボクシング人生はまさに波乱万丈だった。アマチュアで18勝(全KO)1敗、社会人王者の戦績を残しデビュー前から「天才現る」の看板を背負い、颯爽とプロデビュー。時の名王者、渡辺二郎が彼とスパーリングしたあと「これからは彼の時代だ」と引退を決意したとささやかれるほど、誰もが彼のスターダムを疑わなかった。

4戦目でスター王者、岡部繁(セキ)を豪快に4ラウンドに沈め日本バンタム級王座を獲得。誰も対戦を受けてくれない悲しさから、常に格上の世界ランカーたちを相手にキャリアアップ。アブラハム・トーレス(ベネズエラ)相手に分の悪いドローで挫折を味わうも、世界2位のレイ・パショネス(比)にワンサイドの判定勝ち。僅か9戦目でWBCバンタム級王者、グレグ・リチャードソン(米)へアタックした。
この挑戦を圧倒的な10回TKOで戴冠を果たしたものの、ここから彼の苦難が始まることになる。網膜裂孔を患い、その間暫定王座についたビクトル・ラバナレス(メキシコ)との統一戦で荒武者の乱打の前に初黒星。リマッチでリベンジを果たすが網膜剥離が発症。

ボクシング界のルールを改定させるほどの大騒ぎを経て、カムバックしたものの、ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に2連敗。日本中を沸かせた薬師寺保栄(松田)との統一戦にも敗れ、退路は完全に絶たれたものと思われた。

不甲斐ない再起戦をいくつかこなしたあと、おそらく最後であろう、世界戦が組まれた。しかし、相手は絶望的なほどに強すぎた。

シリモンコン・シンワンチャーはタイの期待を一身に背負うニュースター。プレイボーイゆえ遊びが過ぎるものの、それをかき消すほどの天才肌。日本にもおなじみのホセ・ルイス・ブエノ(メキシコ)を右一発でマットに沈め、僅か19歳でWBCバンタム級王座を獲得。ラバナレスを含む並みいる挑戦者たちを難なく退け4度防衛、安定政権を築きつつあった。その完成度の高いボクシングは関係者の中でも折り紙つき。日本の老雄の勝算は皆無だった。

シリモンコン16戦全勝(6KO) 辰吉14戦(11KO)4敗1分

初回から辰吉が果敢に攻める。最終回までやる気は全く無い。減量に苦しんだ王者はゆったり受けて構える。
当日の二人の体重差は5kgはあるだろう。二回りほど王者の体が大きい。だが、機敏なステップ、高速コンビネーションで、一発狙いのタイ人に辰吉は付き合わない。

4ラウンド、辰吉はラッシュをかける。完全にペースを取った。続く5ラウンド、ラッシュからの右カウンターで鮮やかなダウンを奪う。

ボクサーの本能。チャンスと見たなら後先考えない勝負師としての勘。手負いの挑戦者はこれに賭けた。しかし、6ラウンド、7ラウンド、常勝の王者はそんな無防備の辰吉に必殺の強打をめり込ませる。

「やっぱりだめか」そんな空気が流れ始めたとき、老雄が起死回生の左ボディーブローを撃ち抜いた。

名前先行で海のものとも山のものともわからないルーキー時代、マイク・タイソン(米)の前座の東京ドーム。リングサイドに詰めかけた世界中の報道陣が驚愕したチューチャード・エアウサンパン(タイ)戦のあの左アッパーが若き王者の右脇腹を鋭く抉った。
このベストパンチを食ったタイの俊才は2.3歩たたらを踏んで前のめりにダウン。

タイ人は辛くも立ち上がったが、挫折を知ったかつての天才が放った20連発の連打を為す術もなく浴びた。
褐色の体が力なくロープにバウンドしたのをリチャード・スティール(米)レフェリーが支え試合を止めたとき、もう終わりだと思われていた新チャンピオンはキャンバスにひざまずいていろいろなものに対して感謝の絶叫を繰り返していた。